「100%幸せな1%の人々」 小林正観 著 中経出版 2012年 より
<41 死ぬことは不幸ではない。人は、自分が書いたシナリオどおりに死んでいく>ものの見方を考えていくときに、多くの人が必ず出会う問題があります。それは、「病気や事故、死亡というものは不幸ではないのか」、ということです。
結論から言いますと、病気も事故も死去さえも、不幸というものではありません。
病気をした人は、必ず、「より優しい人」になります。十分優しい人でも病気をするのですが、その人はもっと優しさを持った人なので、それを思い出しなさいという意味での病気らしいのです。
本来とても優しい人であったはずなのに、いつの間にか競争社会の中に埋没して、人と争うことばかりしてきた人は、体の奥底の部分で「今の生き方は少し違うのではないか、もうちょっと元の私に戻ってほしい」と悲痛な叫びを上げています。その結果として、優しい人に戻ろうとする。
その場合に、体が「病気」というかたちをとるようです。病気になった人は、必ずまわりの人に対してより優しくなる。そういう結果をともなっています。
同様に、事故を起こした人は、より謙虚になる。自分の能力や努力、才能ですべてのことをやっているんだと思うようになってしまった人は(それを傲慢というのですが)、その結果として、必ず事故を起こすようになっています。事故を起こした人は、必ず、より謙虚になります。
その病気や事故が不幸でないとして、「それでは、その病気や事故の結果として死んでしまうことがあるのではないか。死ぬことは不幸ではないか」と言う人がいると思います。
結論を言いますと、死ぬことさえ不幸ではありません。死ぬこともすべて、生まれる前に「自分が書いたシナリオ」であるということです。私たちは自分のシナリオどおりに生まれ、自分のシナリオどおりに死んでいきます。
私たちは、どういうところで生まれ、どういう名前で生まれ、そしてどのような人生を経ていつ死んでいく、ということを全部シナリオで書いてきたらしいのです。
ですから、私たちが死ぬときは、偶発的に死ぬわけではなく、必ずそのときに、その事情で死ぬことになっているらしい。不運・不幸で死ぬわけではなく、予定どおりに、「シナリオどおりに死んでいく」ということにほかなりません。
「あれをしなければ死ななかった」とか「もう少し別の選択をしていれば死ななかったのに」とか、そういうことはどうもないようです。シナリオのまま、私たちはただ予定どおりに死んでいくらしい。
私たちは、「病気」で死ぬわけではなく、「事故」で死ぬわけではなく、「老衰」で死ぬわけでもない。死ぬのは「寿命」だけ。
病気という名の寿命、事故という名の寿命、老衰という名の寿命で死んでいくのです。単なる「寿命」でしか死なない。たまたまそれが老衰で死ぬときは寿命という言い方を一般的にしますが、実は、病気も事故も、すべて寿命です。
予定どおりに、シナリオどおりに死んでいくということが、私の結論です。ですから、病気も事故も死亡さえも、すべて不幸や悲劇なのではない、といえます。
すべては「自分の書いたシナリオどおり」に起きています、ブログをご覧いただきありがとうございます。
テーマ:スピリチュアル - ジャンル:心と身体
- 2017/01/09(月) 21:43:47|
- 小林正観さん
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